豊は、気乗りしないまま重い足取りを交互に動かすことだけ考えていた。

月読での数ヶ月の生活は敷地内の把握を十二分にさせてくれたが、それでも気を抜くとどこがどこだかわからなくなる。

ここは、無機質で、同じような景色ばかりが連なって、個性も、情緒も、どこにもない。

不意に背筋が寒くなる。

ここは豊の居場所では無い。

非友好的で、閉鎖的な、学徒の牢獄。

初めて訪れた時はここまで端的な感想など抱いてなかったはずなのに、今はどこにいても息苦しい。

原因はわかっている。

理由はわからなかった。

階段をいくつか上り下りして、廊下を渡り、一般学生禁止のペンタファング専用区域に入る。

奥にある幾つかのドアの、その先がトレーニングルームだった。

ここはもっぱら自己鍛錬用に使われる名前どおりの一室で、内部は用途ごとにいくつか小部屋に別れている。小部屋といっても一室が大体畳二十畳分くらいあるから、そこそこ広い。

その中の一室、主に手合わせなどに使うための何も無い部屋が会場だと崇志に聞かされていた。

ゆんゆんの歓迎パーティーだから、絶対来てね。

そういわれて嬉しかったのは事実だ。だが。

(飛河も、来てるんだよな)

正直彼とは必要以上に顔を合わせたく無い。

以前は、それでも何とか親しくなりたいと思っていた。どうしてこんな事をされるのかまるでわからなかったけれど、それでも、自分を見つめる薙の視線に何かを感じ取って、自分なりに努力を惜しまなかった。

今思えばそんなことすらバカらしくて、哀しい。

この間の一件で、最後の希望は絶たれてしまったように思う。

自分は、薙を理解できない。

あの時初めて辛いと思った。考えてみればそれまでそんな気分にならなかったことの方がどうかしているのだけれど、以前については怖くて、不安で、動揺していただけのような気がする。

でも今は違う。

はっきりとわかる。

豊は今、どうしようもなく辛かった。どうしてそう思うのか、わからないけれど、辛かった。

何度か迷って、結局諦めて、扉に手をかける。

開くとそこにもう全員揃っているようだった。

「おっそーいゆんゆん!今お迎えに行こうかって話してたんだよ!」

むくれながら駆け寄って来た伊織がするりと腕を絡めてきた。

「お、ようやく主役の登場だね」

「豊、よく来たな」

崇志、凛と視線を移動して、最後に薙の姿を見つける。

体が勝手に萎縮して強ばった。

薙は、こちらを振り返りもせず、憮然としたまま簡易テーブルに備え付けられた折り畳みの椅子に腰掛けていた。

伊織は来た時と同じように気まぐれに離れて、テーブルの脇で早く来なよとせかした。

「ゆんゆん、月読学院ペンタファング一同開催の交歓学生歓迎会によーこそ」

崇志がおどけた仕草で礼をする。

「でも、せっかくで悪いんだけどさあ」

フイと指し示されたテーブルの上には、何も乗ってなかった。

きょとんとしていると、苦笑いの崇志がごめんねえと詫びる。

「まだ支度の途中で、オマケに買い出しこれからなんだよね」

伊織が、段取り悪いでしょーとまた膨れていた。

「んでだ、だからさ、お買い物、ゆんゆんも手伝ってよ」

お願いっと目の前で合掌されて、豊は慌てて手を振った。

「いいよ、そんなこと全然問題ない、それくらい手伝うよ」

「ホント?」

「だって、歓迎会開いてくれるだけでもさ」

豊はちらりと薙を見る。

薙はよそを見ている。

「十分、嬉しいから」

ニコリと笑うと崇志がゆんゆんっていい奴だよねと歯を見せて笑った。

「そんじゃま、時間も勿体無いし、さっさと買い物行きましょ」

「ここね、八時までしか使えないんだって、リカちゃんってけちでしょ」

「うん、でも」

具体的にどうするのか聞こうとする豊を、崇志がサッと手で制した。

「俺とヒメで食い物担当、リンは会場担当、薙とゆんゆんは飲み物担当ってことで」

「えっ」

豊は目を丸くする。

慌てて振り返ると、薙も珍しく驚いた顔で崇志を見ていた。

「おい、た―――」

「はい決まりー、買い物開始!」

崇志は相変わらずこちらの話など聞くつもりは無いらしい。

伊織もじゃあねゆんゆん、おいしいの買ってくるねと言い残して二人は連れ立って出て行ってしまった。

後に残された薙と豊は困惑したまま固まっていた。

そこに、凛が軽く叱責する。

「おい、作業のじゃまだ、早く行ってくれないか」

「凛」

「薙も、早く行け、飲み物がなくては困るだろう」

支払いはレシートを用意しておけば幹事の崇志が清算するからと、事務的に説明をして凛もどこかへ出て行ってしまった。

困り果てて立ち尽くす豊の様子を伺って、薙が、すっと席から立った。

「秋津君」

ビクリと体が震える。

「行くぞ」

それだけ残して、薙はさっさと歩き出していた。

豊は逡巡して、結局観念するようにその背中を小走りに追いかけた。

 

都会には夜がない。

もちろん、日本は一年を通して白夜などない国だから、日は沈むし暗くもなる。

けれど、夜がないと思う。

街はいつでもどこか不健康に明るくて、必要以上に並んだ街灯や、窓から漏れる明りがそこら中で闇を払拭している。

昼間より交通量は減るものの、相変わらず車は走るし、人は大勢歩いている。

天照郷にいた頃は夜中になれば店も全て閉まり、辺りは漆黒に塗りつぶされていた。出歩くような酔狂な人間などいない。そもそも、出歩いた所で何もないのだから、必要自体なかったのだろう。

ここは、夜がない分、誰もが勝手に用事を捏造して薄闇をふらついている。

まるで火影に舞う羽虫のようだ。

なら今の自分たちも羽虫なのかもしれない。

オレンジや、白の、どこかけばけばしい明りに照らされたコンクリートの上を、少し先を行く薙の後ろから控えめについて歩く。

傍によるだけで、辛くてまた泣き出してしまいそうだったから、豊にはそうすることしかできなかった。

光加減で影は様々な方角を向いた。

それを踏んだり、除けたりすることだけ執心していた。

ふ、と、影が止まる。

豊はそのまま踏み込みそうになって、慌てて足を止めた。

のろのろと顔を上げると、薙が肩越しにこちらを見ていた。

どきん、と、胸が高く鳴る。

「秋津君」

「な、何」

薙は不意に顔をしかめる。

「何を、怯えている」

「―――怯えてなんか、ない」

喘ぐように答えると、影は体ごとこちらを向いた。逆行に遮られた瞳だけが金に光っている。

「君は、怯えている」

冷酷な口調だ。また少し胸が痛い。

「何故だ」

それを薙が聞くのかと思う。

結局、彼は何も知らないから、だからそんな事がいえる。あんなことができる。

豊の事を、なんと思っているのだろう。

そんな事を考えただけで、視界の端がわずかに潤んだ。

「怯えてなんか、ないよ、それは飛河の勘違いだよ」

喘ぐように言うので精一杯だった。

言葉はいつだって本当のことなど伝えてくれない。ならば、話しかけてなど欲しくない。

買い物なんか黙ってたってできるじゃないか。

「だが、今」

「急に話しかけられて驚いただけだ、問題ない、早く行こう」

このままでは埒が明かないと、少し距離を開けて隣をすり抜けようとした豊の腕を薙が捕らえた。

慌てて振り返ると、冷たい視線が豊を射抜く。

「君、店の場所を知っているのか」

答える前に薙が言った。

「何を怯えている、僕の事が怖いか」

豊はまたビクリと震えた。

たまらず視線を反らすと、腕を握る手にわずかに力がこめられた。

まるで、あのときみたいだ。シャワールームで冷たくなるほど強く掴まれた手首の感触。

息ができない、胸が苦しい。

俯くと、秋津君、と苛立った声が呼びかけてくる。

「どうしてそんな顔をする、何故こちらを見ない」

豊はイヤイヤをする様に首を振った。

その途端腕を強く引かれて、すぐ傍の建物の影まで連れて行かれた。

怯える豊をドンと壁に押し付けるようにして、薙が顔を覗き込んできた。

「答えろ、何故だ」

低い声ですごまれても豊は俯いたままだった。喉に声が詰まって、なにか言わなければと思うほどに口が動いてくれない。

「秋津」

吐息に、ビクリと肩をすくめる。

わずかに見上げると唇が近づいた。

そして、そのまま口づけられた。

「ん・・・フ、う・・・や」

豊はギュッと目をつぶる。

ぐる、ぐる、ぐる、頭が回る。

怖い、嫌だ、辛い―――悲しい。

「イヤだッ」

ドン、と胸を突き飛ばして、豊は一杯に開いた目で薙を見据えた。

肩で荒い呼吸を繰り返しながら、唖然としている彼を激しく睨みつける。

「もう、こんなのは、嫌だ」

ぽつりと、考える間もなく言葉がこぼれていた。

「嫌なんだ」

もう一度言う。

夜の大気は生ぬるくて少し汗ばむほどなのに、豊の全身は小刻みに震えていた。

するりと、涙がこぼれた。

その途端、何かのたがが外れた。

「どうして?」

視界がぶれる。

薙は、表情を変えない。

「どうしてっ」

どうして、どうして、どうして。そればかり。

月読に来てから、本当のことなんて何もわからなくなった。理不尽な疑問符ばかりが常に付きまとう。

薙は、答えてくれない。

「どうしてっ」

豊は叫んでいた。

「こんな、こんなことばっかりするんだよ!どうして、どうして」

そんなに。

「俺が・・・嫌いなのか?」

胸がズキリと痛んだ。これまでの比ではなかった。

「俺の事が憎いから、認めたく無いから」

そんな理由はどこにも思いつかない。けれど、もしそれが真実なのだとしたら。

クラクラと世界が揺れる。

辛くて、悲しくて、涙が止まらない。けれどどうして?

・・・やはり、わからない。

「だから、こんなことして、俺を・・・混乱させて、愉しんでいるのか?」

豊は耐え切れなくなって、そのまま壁を伝うように座り込んだ。

いつかの景色の再生のようだなと、頭の端にぼんやり浮かぶ。

薙は、動こうとしない。

動けないのかもしれない。

そのままどれくらいそうしていただろうか、それほど長い時間ではなかったように思う。

「そ」

声が聞こえた。

豊はゆるゆると顔を上げた。

「そういう、つもりは・・・なかった」

陰になった薙の表情は窺えない。ただその言葉は、どこか震えているようだった。

フッと毒気を抜かれたような気分で豊は呆然と見上げていた。

しばらく立ち尽くしていた薙が、おもむろに手を差し伸べる。

何も考えずにつかまっていた。

引き起こされて、離れていく手の感触が冷たい。

もう何度も触れているはずなのに、まるで初めてのような不思議な違和感を覚える。

制服についたほこりを払う。

動作が終わるのを待って、薙は無言で歩き出した。

ややためらってから、豊も後に続く。

薙は、少し前よりどこかゆっくり歩いているように感じられた。

気遣っているのかもしれない。

考えて、豊は首を振る。

そんなはず無い。彼は、そんな人じゃない。きっと違う。

(俺の勘違いなんだ、全部、何もかも)

けれど、そのたびに胸の奥から押し寄せるこの痛みはなんなのだろう。

辛くて、豊は考える事を放棄した。

今は買出しにだけ集中しよう。用件はわかっているのだから、ただ動くだけでいい。

視線の端に見える白い背中は、どこか寂しげに見える。

けれどそれも自身の感傷でしかない事を、豊は知っていた。

偽物の夜が、世界を支配していた。

 

続く